ある正月のことだった。
四十一歳のボームという中年は、くすぶった毎日を送っていた。
なぜかって?
バンドも解散して、音楽活動もできなくなってしまったからだ。
友達と呼べるのは、あの空高く飛ぶ小鳥たちだけになってしまった。
今までボーム・ラムキンはフェスやライブハウスやクラブに行って遊んでいた。
ボームは音楽好きで、とくにビッグビートが好きだった。
ラガービートと呼ばれる、ドラックを必要としない。
ビールを呑みながら楽しめるような楽天的な音楽だ。
ふざけたような感じの、天才DJ CharcoalnormalACIDは、そんなビッグビートを作った一人だ。
話をある年の正月に戻そう。
ボームは十二月一日にネットを見ていると、CharcoalnormalACIDが首都トーキホボウにDJしにやってくるというのだ。
その日、気になっていたバンド「ガーゴイル」が出演するライブも、トーキホボウのライブハウス・バレンシアスコールであるという。
「ガーゴイルを見てから、CharcoalnormalACIDを見に行こう」
そのライブの日は十二月三十日だった。
ボームは仕事もしていた。障がい者雇用の仕事を。
ADHDで、障がい者雇用しか働けなかったからだ。
ついに二十六日に正月休みに入った。
十二月三十日、ボームの住むミラボレラからトーキホボウへ向かうため、電車に乗った。
電車では三時間もかかる。
トーキホボウは都会で、いろんな店がある。
まだライブまで時間があるので、レコード屋に行くことにした。
ウォッスレコードに入り、DJハローワークのミックスCDを買った。
時間は十七時ぐらいになっていた。
若者の街、トーキホボウのアレンズという街で、ライブハウス・バレンシアスコールに入った。
とにかくミラボレラは退屈な街で、ライブもそんなにいいのがないし、ミュージシャンが育っていない。
レコード屋もない。そんな街はアレンズと大違いだ。
ボームはバレンシアスコールに入った瞬間、非日常の楽しさを思い出した。
フェスや楽しかったライブなど、いつも非日常だ。
ライブが始まった。ガーゴイルはおしゃれなバンドだ。
女性ボーカルのマリが、デジタルの破壊されたビートとギターのノイズの上で歌うバンドだった。
ライブが終わって、酒を呑みながら次の会場へ向かった。クラブPXXXだ。
CharcoalnormalACIDのDJを聴けるなんて夢のようだった。
だって毎日音楽に触れられず、行きたい場所もなく、暇してたんだから。
つまらない仕事を任せられて、もっと音楽の世界にいたのに。
ボームは「今日は最高のDJが聴ける」。
そんな気持ちで胸が高鳴っていた。
クラブPXXXの入り口には、冬の冷たい空気と、遠くから聞こえる低いベースの振動が混ざり合っていた。 ボームは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら、重たい扉を押し開けた。
中に入ると、照明はほとんど落とされていて、わずかなレーザーが煙の中を切り裂いていた。 人々の影がゆっくり揺れ、誰もが自分だけのリズムを持っているようだった。
その奥のDJブースに、CharcoalnormalACIDが立っていた。
黒いパーカーのフードを深くかぶり、顔はほとんど見えない。 だが、指先だけが異様に生き生きと動いていて、 まるで機械と人間の境界を曖昧にするような、奇妙なグルーヴを生み出していた。
最初の一音が鳴った瞬間、 ボームは自分の体が勝手に前へ進むのを止められなかった。
「これだ……」
胸の奥で、長い間眠っていた何かがゆっくりと起き上がる。 フェスで夜明けを迎えたときの感覚。 クラブの隅で知らない誰かと笑い合った瞬間。 音楽が自分の人生を支えていた頃の記憶が、 一気に押し寄せてきた。
CharcoalnormalACIDは、ビッグビートの王道を外しながら、 どこか懐かしいラガービートの影を残していた。 破壊されたキック、歪んだベース、 そのすべてがボームの心臓に直接触れてくる。
「俺は……まだ終わってない」
気づけば、ボームは涙をこらえていた。 音楽を失ったと思っていた。 自分の人生はもう灰色だと諦めていた。 でも、今この瞬間だけは、 世界が再び色を取り戻していた。
曲がピークに達したとき、 CharcoalnormalACIDがふと顔を上げ、 フロアの奥にいるボームの方を見たような気がした。
もちろん、気のせいかもしれない。 でもボームは、その一瞬だけで十分だった。
「また……音楽をやりたい」
胸の奥で、はっきりとした声がした。
その声は、誰のものでもない。 ボーム自身の声だった。